学校の歴史
「鎮守の森を中学校に」
校区の方々の熱意と協力・奉仕によって開校したのが豊岡中学校なのです。
マンモス校豊岡中の分割のどかな町から市街地へ
| この校区は江戸時代の新田開発によって開けてきた校区ですが、その後は人口も土地の利用状況も大きな変化がなく明治、大正とのどかな農村地帯として静かにゆったりと時が流れていきました。 昭和30年代の写真を見ても、学校のまわりがのどかな田園地帯にしか見えないのです。昭和35年度の卒業生も「運動場の前には田園が続き、飯村町が一望に見渡せたものでした。」と当時を振り返っています。(11回卒業生:昭和35年度) 当時の豊岡校区は水田と果樹園の広がりの中にあちらこちらに数戸ずつの農家が点在し、その間を曲がりくねった農道が連絡しあっていたような状態でした。豊橋の市街地から田畑を隔ててぽつんと存在するこの校区には市街化の波が届かなかったんです。それが昭和40年代に入って多米峠の有料道路の開通、向山の市民文化会館、豊川用水の全面通水などの施設の整備とともに市街化の波が押し寄せてくることになるのです。
計画的な町づくりのための岩田第1土地区画整理事業が昭和43年から51年まで、岩田第2土地区画整理事業が昭和45年から53年まで、平川本町土地区画整理事業が昭和48年から、55年までと3つの区画整理が行われ、稲作と園芸を中心とした農業地帯が住宅地域として生まれ変わったのです。 その結果、のどかであったこの地区も市街化が急激に進み、人口の急激な増加を引き起こしてきました。岩田第1土地区画整理事業が行われた西岩田では、昭和43年に84戸であったのが、昭和51年には580戸を越える住宅地となったほどです。 また、この事業の中で、農業のためになくてはならなかったため池も水神池と空池の跡地は13.8haもの広さの岩田運動公園に、岩鼻池は600戸の県営岩田団地に大きく姿を変えこの昭和40年代の区画整理によって、豊岡校区は本当に大きく変わり、昭和57年には、市電の運動公園までの路線も開通しました。農業地帯が住宅地になったばかりでなく交通機関の便が良くなったり、いろんな店もたくさんできたりわずかな期間に非常に大きく変化してきました。 これだけ大きな校区の変化により、校区の人口増加が生徒数を急激に増加させてしまいました。
昭和25年、生徒数579名でスタートした豊岡中学校も、昭和56年には1855名のマンモス校となり、昭和57年東部中学校が分離独立しました。でも、昭和62年にはもうすでに生徒数が1733名となってしまい、昭和63年に東陽中学校が分離独立しています。わずかな期間に2つの新設校ができていったのです。 急激な市街化により中学校にまで大きな変化が起きたということですね。 |