日誌

優しい朝の風景を見つめて

    ある朝のことです。通学路の歩道で転んだ中学年の女の子がいました。アスファルトでひざが擦れて、かなり痛そうです。立とうとするわけですが、手をついて四つんばいになったまま、なかなか動けません。目から涙はとめどもなく出てきます。その涙に圧倒されてか、班の子は、その場に立ち尽くしたままです。いたいたしさに、子どもたちの時間は止まったままでした。

  そのときです。1年生の男の子が、その上級の女の子に手をさしのべるではありませんか。かざされた、その小さな優しい手のひらをじっと見つめた彼女は、やがて顔を上げ、自力で立ちあがったのでした。そして涙を拭き、ランドセルを背負い直すと、今度は彼女の方からその男の子に手をさしのべました。手をつなぐと、みなが安心したように歩き出しました。彼らの時間も動き出したのでした。

    福岡ウォークの舞台である通学路では、こんなふうに優しさのあふれる福岡っ子の紡ぎ出す感動的な場面があります。先日は、突然鼻血を出した男の子を「大丈夫、大丈夫」と安心させながら登校する子たちがいましたし、泣き出した1年生の子をおんぶして登校する上級生もいました。

  しかし、その一方残念なこともあります。大きな声で挨拶してくれた子たちの声がめっきり小さくなったことです。地域の方から挨拶ができなくなったねえというのも声も届いています。優しさが声にならない、これは悲しい風景です。

  大きな声を出すことは、人とつながることはもちろん、自分の身を守ったり、だれかのいのちを救ったりと、大切な行為です。昨日の福岡ウォークでは、元気な挨拶が校区にとどろいていました。この声が毎日続くといいなと思いながら、手をつないだ2年生と4年生の子たちの背中を見つめていました。