② 吉原弥次右衛門と祐太朗
吉原氏は、芦原新田の開拓に功績のあった家柄である。 芦原は、元は梅田川の河口の流れの中にあって、沼のような状態で葦が生い茂り、荒れた沼地のようなところであった。
寛永年間(1624~1643)、時の吉田藩主は、この地を開拓しようとしたが、たびたびの津波や洪水で失敗し、その後、ながらく放置されたままであった。明暦2年(1656)、遠江の国の人、吉原弥次右衛門重次は、一族と相談して、藩主小笠原忠知の許可を得て、この土地の開拓に着手した。しかし、この土地を入会として共有している村々の大反対に合い、数々の妨害も受けたうえ、津波にもあって、第一次の開拓事業は失敗した。
第2世弥次右衛門が、その事業を受け継ぎ、いろいろな妨害を除きながら、新しい川をつくり、古い川を埋め、たびたびの堤防の破壊にも屈せず、元禄3年(1690)、35年ぶりに熟田30余町歩、畑20町歩を完成させた。この田畑が芦原新田と名付けられ、ここに芦原村が始まったのである。
吉原祐太朗
吉原祐太郎氏は、弥次右衛門の子孫に当たり、万延元年(1860)芦原村の生まれで後に、政界に出て愛知県会議員となり、続いて衆議院議員を2期勤めた人である。この地方においては、渥美電気鉄道初代社長などを歴任し、東三財界の長老として、また、愛知の政界財界の重鎮でもあった。
特に、土木水利事業、農・養蚕業、初等教育等々の推進に大きく貢献した人、常に先を見通した構想をもって事業に当たった人として、たたえられ語りつがれている。(校区のあゆみ高師より)