学校設立

 昭和30年代後半からの高度成長期、豊橋地方では大工場誘致が進み、これに伴う従業員らの大住宅地の確保が急務となった。大清水地区南部がこの候補地として選定され、昭和46年から土地の買収が始まり、昭和49年「豊橋レイクタウン」の住宅地造成工事が始まった。
 昭和51年、レイクタウンの入居が始まり、わずか数年の間に人口は2千人を超えるようになった。 この頃は大清水小学校区であったので、子どもたちは約2kmの道のりを30分以上かかって通学していた。
 新設小学校は昭和60年建設の予定だったが、昭和56、57年のレイクタウンの人口の急増に伴い、大清水小学校の児童数が大幅に増加して、規模的に収容しきれないような状態になってきた。
 そのため、新設校の早期開校を求める声が住民の中からわき上がり、遠隔地からの登下校の危険性という事情もあって新設校設立を目指した運動が積極的に推進されることになった。
 昭和57年6月、大清水校区として、新設校(富士見小学校)要望の陳情活動が行われ、新設校開設に向けた第一歩が踏み出された。
 昭和58年6月11日の定例議会でレイクタウン内に大清水小学校の分離校を設立することが決定した。
 開校準備委員会は、5月3日から15日にわたって広く校区の人たちから校名募集を行った。その結果、512点の応募があり、35種の校名案がでた。その7割が「富士見」案であった。「富士見」は、この地区の地名(南大清水町字富士見)でもあり、覚えやすいこと、日本を代表する山、富士山を望み日本一の学校をめざすなど、格調も高くなじみやすいこと等から、開校準備委員会は、「富士見小学校」に内定し、市へ報告7月19日の議会で可決され正式名となった。


・大清水校区新設小学校「校名」案
富士見363その他
22種
富士見台45赤沢南台
大清水南21南清清南
レイクタウン
レイク
礼区
礼紅
19湖南大清水台