お知らせ
西郷の歴史(古墳時代・戦国時代)
  (1) (いにしえ)の世界に誘(いざな)う古墳群
  西郷校区には、多くの古墳(こふん)があります。その中には、石室が現存しているものもあります。昔は、西郷校区とその周辺に多くの豪族(ごうぞく)がいたと思われます。
 
久太夫塚古墳(くだゆうづかこふん)は、西川町の上地にあります。大型の立派な横穴式石室(よこあなしきせきしつ)があって、7世紀に築造されたと考えられています。近くに看板もあり、だれでも見学できます。

 段塚古墳の石室 西川町の津田さんの敷地の中にあります。戦時中は防空壕にしていたそうです。

(2) 戦国時代に活躍した西郷氏
  戦国時代にこの地方を支配していたのは、西郷氏で九州の出身です。西郷氏は、永正年中に嵩山(すせ)に来て、天正18年(1590)関東入りまでこの地方を支配しました。古い記録には、西郷弾正左衛門(さいごうだんじょうさえもん)という名前が出てきます。桶狭間(おけはざま)の戦いの後、一度攻められて五本松城の戦いで西郷家は多くの戦死者を出してしまいました。その後、西郷氏は、徳川家康の応援もあり、西郷清員(きよかず)が西川に城を築き領地を取り戻しました。その後、西郷氏は、徳川家康の味方をして数々の活躍をしました。西郷氏の一人西郷義勝のいとこ西郷の局「お愛の方」は、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)を生みました。
お愛の方(西郷の局)

(宝台院写真提供)
お愛の方は、西郷正勝の孫で西郷義勝が戦死した後、西郷清員(きよかず)の養女となりました。やがて、徳川家康の側室となり、西郷の局とよばれて、2代将軍となる徳川秀忠を生みました。美人で、また温和な性格であり、家臣たちにも慕われていたそうです。静岡市の宝台院というお寺にお墓があります。

(3)  戦国の城
  西郷校区には、戦国時代の城跡があります。主なものは、中山の五本松城、萩平の城山(萩平山城)、西川の西川城です。西川城は、今のかたくり山のところにあって吉田城に次ぐ規模だったといわれています。急な崖(がけ)は、攻めにくかったと思われます。

春になると西川城跡のこの崖にきれいなカタクリの花が咲き乱れます。秋には栗が実ります。


校歌にも登場する「城山」は、西郷氏の鷹打砦(たかうちとりで)のあとで、西郷家員(いえかず)が攻めてきた武田軍を追い払ったところだそうです。その後、家員は長篠(ながしの)の戦いでも鳶ヶ巣砦を攻めて活躍しました。

五本松城跡
西郷正勝が1561年に築城したといわれています。その年、今川勢が中山に攻め寄せたとき菅沼氏とともに撃退したそうです。次の年、朝比奈氏(今川方)に急襲されて討ち死にしてしまいました。1562年正勝の子ども西郷清員(きよかず)は、家康から援軍をもらい今川方を打ち破り、この地を取り戻しました。この年に西川城、五葉城(新城市)を築きました。

五葉城跡(新城市富岡)
西郷氏の北の支城で、新城方面がよく見渡すことができ、見張りの役割を担ったと思われます。よく整備されていて、大原調整池(五葉湖)から徒歩で登ることができます。
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