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コネタストーリー

日本からアメリカへの移民
江戸時代が終わり、今から150年前の明治時代の話です。ヨーロッパの文化が日本にどんどんと入ってきました。
 和服から洋服に変わったり、髪型が変わったりしました。建物や音楽など今まで日本になかった物が入り、日本の近代化が始まりました。また、日本人も外国で働こうとハワイやアメリカ大陸に移り住む人も出てきました。大正時代になってアメリカへ移り住んだ人は、20万人以上になりました。日本人は大変な働き者で、しかも安い賃金で働きました。そのため、アメリカの労働者にはよく思われませんでした。そして、日本人はアメリカへ入国できないという、厳(きび)しい法律ができてしまいました。 

ギューリック博士
 当時、日本の大学で先生をしていたギューリック博士がアメリカへ帰国するとむずかしい問題が起きていました。それは、日本人の移民が増えてくるとアメリカ人の仕事減って暮らしにくくって困るということから日本人移民の反対運動が起こっていたのです。そして、日本人はアメリカへ入国できないという、きびしい決まりができてしまいました。
   ギューリック博士
 博士は世界の子ども達に仲よくなってほしいと世界児童親善会をおこしました。同時にアメリカの人形を日本の子どもたちに送る人形計画も始めました。(同志社大学神学部提供)
 こうした状況を憂えたギューリック博士は、青い目の人形を日本の子どもたちに送り、アメリカと日本が仲良くなってほしいと考えました。友情の人形計画を立てて、260万人のボランティアが協力し、1年がかりで手作りの洋服や手紙を用意しました。
そして、日本政府に人形配付の協力を要請(ようせい)しました。しかし、なかなかいい返事はもらえませんでした。
そこで、アメリカとの関係改善を強く望んでいる実業家渋沢栄一(しぶさわえいいち)に協力を依頼しました。

渋沢栄一の活躍

渋沢は、よいと思ったアイディアには賛同し、組織を立ち上げ実行に移す力の持っている人でした。

彼は、87歳の高齢でしたが、日本国際児童親善会(にほんこくさいじどうしんぜんかい)の会長に就任(しゅうにん)し、事業を遂行しました。
昭和2年(1927年)アメリカから1万2973体もの「青い目の人形」が贈られたのです。

人形を抱いた渋沢栄一
日本初の銀行となる第一国立銀行の総監役、東京証券、鉄道会社など約500もの企業に関わった実業家、養育院の院長など社会活動にも力を注ぎました。(渋沢史料館提供)

各地で大歓迎を受ける青い目の人形
 青い目の人形は、各地で歓迎され、日米友好の気運は急速に回復していきました。
愛知県には、349体の人形が送られました。

 コネタはその青い目の人形の一つで、オハイオ州ワパコネタから送られ、コネタと名付けられました。
青い目の人形は人間と同じように、外国に行くときに必要なパスポートや乗り物の切符(きっぷ)を持ってきました。
アメリカからのメッセージカードも一緒に送られました。

パスポート ニューヨーク領事の斉藤博氏のサインがあります
 パスポートや切符、メッセージカードは、今でもコネタと一緒に校長室に大切に保存されています。
そして、昭和2年(1927年)4月21日木曜日 西郷小学校にも青い目の人形「コネタ」ちゃんが送られてきました。
90年も前のことです。



この写真は、その時の学校日誌です。こんな古い物が資料として今も残っています。
コネタが学校に来て、みんな大喜びしました。
人形が送られた各学校では、「友情の人形歓迎会」が開催されました。西郷小学校でも5月9日に歓迎会を行った記録が残っています。名古屋の大須小学校や豊橋の下条小学校には、歓迎会の写真が残っています。歓迎会では、先生だけでなく地元の名士と思われる人の姿もあります。あいさつに続いて歓迎の合唱をしたことが写真に写っている式次第から読み取ることができます。きっと、どこの学校でも大歓迎をされたことが想像されます。ひな祭りに合わせて贈られてきたため、どの学校でもひな壇に青い目の人形を飾っています。

豊橋市立下条小学校での歓迎会の様子 代表の子が人形を抱いています

名古屋市の大須小学校に残っている歓迎会の様子 屏風の上には日米の国旗が飾られひな壇の真ん中に送られた人形がいます

新城小学校で行われたアメリカ人形祭り(新城小学校100周年記念写真集より)

答礼人形を送ろう
こうして、日本国内のアメリカに対する世論はとてもよくなってきました。この気運を続けるために渋沢栄一は、お返しの人形を送ろうと提案しました。児童一人一人から1銭の寄付を集めて答礼人形を作り、都道府県や主な都市から一体ずつとどけることになりました。日本の人形師たちがうでをふるって素晴らしい人形を仕上げました。全部で58体です。いただいた人形に比べて数は少ないのですが、高級な作りで、今のお金にすると300万円くらいかかったそうです。人形には、それぞれ送り出す県や都市の名前がつけられました。愛知と名古屋からは、「ミス愛知」「ミス名古屋」です。

名古屋市の大須小に残っている「ミス名古屋」の写真
こうして日本からは58体の答礼人形とよばれた市松人形(いちまつにんぎょう)を贈ったのです。
答礼人形たちは、アメリカの各地で歓迎され、大切にされました。もちろん、答礼人形を見た日本人移民も大喜びでした。
松原駐米大使「58体の人形大使は、私を助け、私のできないことを成し遂げてくれるでしょう」
ニューヨークのウォーカー市長「日本の児童がこのために捧げたお金は、日米の親交を築き上げる」

答礼人形・ミス名古屋  1985年発見 アトランタ歴史センター 所蔵

答礼人形・ミス愛知  2012年発見  アラン・スコット・ペイト氏 所蔵
ミス愛知は、後の人間国宝「平田郷陽」さんの作品です。平田郷陽さんは、人間そっくりの人形を得意とし、それまで遊び道具でしかなかった人形を芸術の域まで高めたとして1955年に人間国宝になりました。


悲しい戦争
 ところが、1941年日本とアメリカの戦争が始まり、日本は石油資源を求めて東南アジアに軍隊を進めました。
 「青い目をした人形はにくい敵だ。許さんぞ。」と新聞に書かれ、
各地で、「青い目の人形」がこわされていきました。
西郷小学校のコネタも燃やす指示がされました。
しかし、そのときの稲垣学(いながきまなぶ)先生は
「人形につみはない,友情の証である人形を燃やすなんて…」
と思い、自分の家のお蔵(くら)に隠(かく)しました。
しかし、稲垣先生も戦争に呼び出されました。
その時、もしも私が戦争で死んだら、家族や校長先生に迷惑がかかると思いました。
稲垣先生は、戦争に行く前にコネタを新聞にくるみ、学校の押入の奥にそっと隠したのです。

若いころの稲垣学先生

戦争が終わり平和に
多くの犠牲を出した太平洋戦争が終わりようやく平和な世の中がおとずれました。しかし、コネタはしばらく押し入れにしまわれたままでした。
 1985年(昭和60年)、学校の押入の中からコネタが発見されました。
当時青い目の人形が保存されていた細谷小の戸川哲雄校長から、かつて勤務していた西郷小学校にも青い目の人形があったとの連絡があり、当時の西郷小の野口校長が校長室の戸棚を調べたところ、人形が出てきたそうです。
 コネタは、西郷小学校の平和のシンボルとして再び子どもたちの前に現れました。
 その後、コネタは1996年に故郷のワパコネタに里帰りしました。
そのとき、ノースリッジ小学校 と西郷小学校は姉妹校(しまいこう)になりました。
そして、2000年にコネタのレプリカが作られノースリッジ小学校に送られました。

  ノースリッジ小学校の名前はワパコネタ小学校に変わりましたが、
お互いの学校の子どもがつくった作品などを交換したりして交流は続いています。

愛知県内に現存する10体の青い目の人形 コネタは、真ん中にいます
(幸田町教育委員会編 青い目の人形調査報告書 2018 より)

2020年11月27日現在、全国では341体の人形が残っています。